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錯体化学

錯体化学は,金属原子や金属イオンと非金属原子との間に配位結合がある化合物についての学問です。一般には無機化学の一分野として分類されていますが,現代の錯体化学は,無機化学に限らず,他の化学分野や材料科学,さらには物理学,生命科学などとの関連も深く,非常に広範囲な学問分野を形成しています。

錯体のの字には,「たてよこ入り混じる」という意味があります。これは錯体の英語表記である complex を和訳する際に,complex という単語が持つ「複雑な,入り組んだ」という意味を含ませるために選ばれた漢字であると思われます[1]。最近では,より汎用性が高い用語として,配位化合物(coordination compound)という言い方が用いられることもあります。

19 世紀の中頃までは,無機化合物の結合は,今日でいう,イオン結合のイメージに近い,電気的な相互作用がすべてと考えられていました。これを Berzelius による電気的二元説といいます。しかし,二元説では説明できない $\ce{CoCl3.6NH3}$ のような組成を持つ化合物(ルーテオ塩)が知られるようになり,それらは,構造が複雑で不明ということで complex と呼ばれていました[2]。Alfred Werner は,錯体化合物の構造に対する,現代的な理解の原型といえる配位説を1893年に提唱し,後にその先見性が評価されました。柴田雄二は,Werner のもとで学び,日本へ錯体化学を持ち込んだ,日本における錯体化学の草分け的存在であり,coordination を配位と訳したのは柴田です[3]

現代における錯体の定義としては「原子 A に他の原子 B または原子団 C が結合してできた分子またはイオンで,B と C の数の和が A の古典的な化学量論的原子価よりも大きいもの」というのが妥当であると思われますが,後半の「古典的な化学量論的原子価よりも大きい」という条件を満たさないものであっても錯体と呼ぶこともあるので,実際には配位結合を有する分子やイオンを広く錯体と呼ぶと考えておいても問題ありません。

錯体は大きく,ウェルナー型錯体非ウェルナー型錯体に分類されます。ウェルナー型錯体は,中心イオンを電子対受容体(ルイス酸),配位子を電子対供与体(ルイス塩基)とする,酸塩基反応によって配位結合が形成されている錯体のことであり,上で述べたルーテオ塩は ウェルナー型錯体です。一方,非ウェルナー型錯体は,遷移元素の低酸化数イオンまたは原子に,無極性または弱い極性しか示さない配位子が結合したものです。このような配位子がウェルナー型ではないと分類される理由は,学習を進めるにつれて明らかになっていきます。非ウェルナー型錯体を形成する配位子としては,一酸化炭素(カルボニル),不飽和炭化水素,芳香族炭化水素,ホスフィン誘導体などがあります。

  • [1]当初は錯塩と呼ばれていましたが,塩ではない化合物もたくさん知られるようになったため,1954 年に錯体という語が提案されました。
  • [2]ルーテオ塩の化学式は,現代では $\ce{[Co(NH3)6]Cl3}$ であることが知られています。
  • [3]時代背景としては,柴田が日本に帰国したのが第一次世界大戦直前の 1913 年で,パリ講和会議が開かれた 1919 年に東京帝国大学の教授に就任しています。

表記法と命名法

錯体の構造と異性体

化学結合と配位子場

錯体の電子構造