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弱い結晶場

結晶場の取り扱い方として強い結晶場の方法と弱い結晶場の方法の二つのアプローチがあることを学びました。これまでは暗黙のうちに強い結晶場の方法,すなわち分裂した $\ao{d}$ 軌道に電子を配置するという方法を考えてきました。本節では弱い結晶場の方法におけるアプローチの仕方を紹介します。ただし,このアプローチでは初めに自由イオンの電子状態を表す原子項を求める必要がありますが,これについては錯体というよりは量子化学あるいは原子論の学習範囲に入りますので,ここでは簡単に触れるにとどめます。以下の説明がまったく何を言っているのか分からないという方は,とりあえず最終的な結果だけを受け入れていただくのが良いと思います。

自由イオンの原子項

まずは電子間の反発を考慮すると,自由イオンの電子状態がどのように表されるかを知る必要があります。そこで第一遷移金属の自由イオンを考えます。電子配置が $\ao{d}^2$ であれば,個々の電子が持つ軌道角運動量量子数(方位量子数)$\ell$ は $2$ であり($\ell_1=2$,$\ell_2=2$),これらを合成した全軌道角運動量量子数 $L$ は $2+2=4$ から $|2-2|=0$ までの整数をとることができます。すなわち,$L=4$,$3$,$2$,$1$,$0$ が許されることになります。全スピン角運動量量子数 $S$ は,同様に考えて $S=1$ と $0$ が許されます。$L$ と $S$ が決まると,その射影成分である $M_L$ と $M_S$ がとりうる範囲が,それぞれ $L$ から $-L$ までの $2L+1$ 個,および $S$ から $-S$ までの $2S+1$ 個と定まります。この $2S+1$ はスピン多重度と呼ばれるものです。$L$ の値に対しては大文字アルファベットが割り当てられており,ゼロから順に $S$,$P$,$D$,$F$,$G$,$H$,$I\cdots$ と書く約束になっています[1]

全軌道角運動量量子数を表すアルファベットの左肩にスピン多重度を記した $^{2S+1}L$ を原子項といいます。パウリの排他原理を考慮して,電子がとりうる状態を書き出すと,例えば電子配置が $\ao{d}^2$ であれば,$^1G$,$^3F$,$^1D$,$^3P$,$^1S$ を合わせた 45 の状態($1\times 9 + 3\times 7 + 1\times 5 + 3\times 3 + 1\times 1$)が可能です[2]。これらのうち,最もエネルギーが安定な基底状態はフント則から明らかなように $^3F$ です。このように基底状態の原子項は簡単に求まるのですが,一方で基底状態以外の原子項のエネルギー順は,電子間反発を考慮しなくてはならないため,単純には決められません。

錯形成した金属イオンの項

求めた原子項に対して結晶場を適用します。原子項で合成軌道角運動量を表すために用いた大文字のアルファベットは,対応する小文字のアルファベットで表される原子軌道,すなわち $\ao{s}$ 軌道,$\ao{p}$ 軌道,$\ao{d}$ 軌道...などと同じ対称性を有しており,結晶場に対する分裂の仕方も原子軌道の場合と変わりません。つまり $D$ で表される原子項であれば,六配位正八面体型の結晶場によって $\irrep{E}{g}$ 対称を有する状態と $\irrep{T}{2g}$ 対称を有する状態に分裂します。これを各原子項に対してまとめたのが以下の表です。

原子項 状態の数 $\grp{O}{h}$ 場 $\grp{T}{d}$ 場
$S$ 1 $\irrep{A}{1g}$ $\irrep{A}{1}$
$P$ 3 $\irrep{T}{1g}$ $\irrep{T}{1}$
$D$ 5 $\irrep{E}{g}+\irrep{T}{2g}$ $\irrep{E}{}+\irrep{T}{2}$
$F$ 7 $\irrep{A}{2g}+\irrep{T}{1g}+\irrep{T}{2g}$ $\irrep{A}{2}+\irrep{T}{1}+\irrep{T}{2}$
$G$ 9 $\irrep{A}{1g}+\irrep{E}{g}+\irrep{T}{1g}+\irrep{T}{2g}$$\irrep{A}{1}+\irrep{E}{}+\irrep{T}{1}+\irrep{T}{2}$
$H$ 11 $\irrep{E}{g}+2\irrep{T}{1g}+\irrep{T}{2g}$ $\irrep{E}{}+2\irrep{T}{1}+\irrep{T}{2}$

電子配置が $\ao{d}^1$ のときは,自由イオンの原子項は $^2D$ ですが,$\grp{O}{h}$ 場のもとではこれが $\irrep{t}{2g}^1$ 電子配置に対応した $^2\irrep{T}{2g}$ と,$\irrep{e}{g}^1$ 電子配置に対応した $^2\irrep{E}{g}$ の二つの状態に分裂します[3]。1 電子系ですので電子間反発は存在しません。したがってこの場合,$^2\irrep{T}{2g}$ と $^2\irrep{E}{g}$ 間のエネルギー差は $10Dq$ と等しくなり,$\ao{d}^1$ 系では強い結晶場の方法と弱い結晶場の方法の区別はありません。上で述べたように,電子配置が $\ao{d}^2$ のときには $^1G$,$^3F$,$^1D$,$^3P$,$^1S$ の原子項が生じますので,結晶場の存在によって,これらのそれぞれが上の表に従って分裂します。ただしこの分裂が実際にどのくらいの大きさで,配位子の違いによってどのような違いが生じるかという具体的なことについての計算は,強い結晶場のときと同様,やはり基礎の範囲を超えますのでここでは扱いません。結果としてまとめられた田辺・菅野ダイヤグラムの使用方法については後の節で学習します。