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電子遷移

錯体は基底状態と励起状態のエネルギー差に相当するエネルギーの光を吸収して,励起状態に遷移することができます。横軸を光の波長やエネルギー,縦軸を光を吸収する程度(吸光度やモル吸光係数など)で表したものを電子吸収スペクトル(electronic spectrum)といいます。既に高スピン,低スピンの説明をする際に紹介したものの再掲ですが,以下は $\ce{[Ti(OH2)6]^{3+}}$ の電子吸収スペクトルで,この錯体は $493\unit{nm}$ をピークとする波長領域の光を吸収して励起状態に遷移することがわかります。

[Ti(OH2)6]の吸収スペクトル

$\ce{[Ti(OH2)6]}$ の吸収スペクトル

電子吸収スペクトルの「電子」というのは,光吸収によって励起された電子状態に錯体が遷移する,電子遷移(electronic transition)を観測しているということを表しています。通常は紫外可視領域の光によって電子遷移が起こりますので,電子吸収スペクトルは紫外可視吸収スペクトルとも呼ばれ,両者はほぼ同じ意味です[1]。振動状態が励起される場合は振動スペクトル,回転状態が励起されるスペクトルは回転スペクトルなどとよばれ,それぞれ主となる光(電磁波)のエネルギー領域が異なります。本当は電子吸収も振動も回転も,光を吸収するので,吸収スペクトルとだけ言うとどれをさしているのかが曖昧になってしまうのですが,文脈上紛れがない場合は,略して吸収スペクトルと言うと,紫外可視領域の電子吸収スペクトルを指すことが多いので,本講義でも以下,吸収スペクトルと呼ぶことにします。

$\ao{3d}$ 遷移金属錯体は有色のものが多いですが,これは錯体が可視光を吸収する,すなわち可視光によって電子励起されるためです。したがって錯体の吸収スペクトルは,錯体の電子状態についての情報を豊富に含んでいます。ただし,励起状態が存在すれば必ず光吸収があるかというとそういうわけではなく,光吸収が起こりやすい(遷移確率が大きい)条件というものがあり,選択則(selection rule)といいます。特に重要な大原則に,基底状態とはスピン多重度が異なる励起状態への遷移は禁制(forbidden)というものがあり,これはスピン禁制(spin forbidden)と呼ばれる選択則になっています。実際には,スピン禁制であっても種々の理由から少しは吸収が見られることが多いのですが,それでも吸収強度を表すモル吸光係数 $\varepsilon$ は極めて小さく,$1\unit{dm^3mol^{-1}cm^{-1}}$ 未満であるものが多いです。電子遷移はその起源によって,いくつかに分類されます。本節では錯体で特に重要となる電子遷移の種類について説明します。

$\ao{d}$-$\ao{d}$ 遷移

結晶場分裂によって生じた,$\ao{d}$ 電子により生じる電子状態間の遷移を $\ao{d}$-$\ao{d}$ 遷移といいます。上で示した $\ce{[Ti(OH2)6]^{3+}}$ のスペクトルに見られる吸収帯も $\ao{d}$-$\ao{d}$ 遷移が起源です。錯体が関わる電子遷移としては最も有名かつ重要なものですが,対称心がある結晶場では,パリティ(偶奇性)が変わらない遷移は禁制という選択則があるため,実は $\grp{O}{h}$ 対称の結晶場の元での $\ao{d}$-$\ao{d}$ 遷移は本来禁制で,これをラポルテ禁制といいます[2]。しかし実際は,結晶場は厳密な $\grp{O}{h}$ 対称ではなく,また分子振動の影響もあるため,$\ao{d}$-$\ao{d}$ 遷移は一部許容化して吸収帯が観測されるのが通常です。しかし,そうは言っても一般に六配位正八面体型錯体の $\ao{d}$-$\ao{d}$ 遷移はモル吸光係数が小さく,スピン許容であっても $20-100\unit{dm^3mol^{-1}cm^{-1}}$ 程度となります。$\grp{T}{d}$ 対称場では対称心がないため,ラポルテ禁制には該当せず,モル吸光係数は $250\unit{dm^3mol^{-1}cm^{-1}}$ 程度となります[3]

電荷移動遷移

金属イオンと配位子の両方が関わる遷移を電荷移動遷移(charge-transfer transition,CT)といいます。遷移に伴う電子(すなわち電荷密度)の移動が,金属から配位子の場合を MLCT(metal-to-ligand CT),配位子から金属の場合を LMCT(ligand-to-metal CT)といいます。CT は禁制ではないので,そのモル吸光係数は $1,000-50,000\unit{dm^3mol^{-1}cm^{-1}}$ 程度と大きく,しばしば錯体の濃い色の原因となります。観測された吸収帯が MLCT であるのか LMCT であるのかの区別は,錯体の電子状態などの情報を元に判断する必要があるので一般に自明ではありません。

  • 濃い紫色を呈する過マンガン酸イオン $\ce{[MnO4]-}$ は,$\ce{Mn(VII)}$ が $\ao{d}^0$ であるため,$\ao{d}$-$\ao{d}$ 遷移や MLCT は原理的に起こりません。これは LMCT の典型例として知られています。
    過マンガン酸カリウム

    過マンガン酸カリウム
    (Benjah-bmm27, Public domain, via Wikimedia Commons)

  • MLCT は,配位子がエネルギーの低い空軌道を有するときに観測されます。典型的にはエネルギーが低い $\pi^*$ 軌道がこの条件を満たしやすく,例えば $\ce{[Ru^{II}(bpy)3]^{2+}}$ の橙色の由来は MLCT の典型例となっています。

最終更新日 2022/07/12