標準状態
これまでエンタルピーやギブズエネルギーの変化を $\DelH{}$ や $\DelG{}$ のように表してきました。これに添え字をつけて $\DelH{vap}$ のように,より具体的に表す表記法も見てきました。ところで,これらの状態量は温度や圧力に対して一定ではありません。つまり室温での $\DelH{}$ と,高温での $\DelH{}$ は同じ値にはなりませんし,大気圧と高圧でも同様です。そのため,ただ $\DelH{}$ と書かれても,圧力や温度の情報がないと役には立ちません。また,化学反応の $\DelH{r}$ を報告するときに,人によって勝手な温度や圧力で報告していると,異なるデータを比較するのも大変です。そこで約束事としてあるのが標準状態(standard state)です。標準状態は以下で約束されます。
温度 $T$ における物質の標準状態とは,温度 $T$,標準状態圧力 $\po$ における,その物質の純粋な状態または仮想的な状態をいう。
「その物質の純粋な状態または仮想的な状態」などと仰々しく書いていますが,短縮して「その物質の状態」と読んでいただいて結構です。
圧力についての説明から始めます。標準状態圧力(SSP,standard-state pressure)$\po$ とは,$10^5\unit{Pa} = 1\unit{bar}$ のことです。標準大気圧は $101.325\unit{kPa}$ ですので,大気圧よりも少し低い値です。注意しなくてはいけないのは,$\po$ が標準状態のための標準圧力であるということで,絶対的な標準圧力とは言っていない点です。つまり他の標準圧力も存在します。例えば,沸点の標準圧力を $\po$ としてしまうと,水の沸点が $100\oC$ ではなくなってしまい,非常に不便です。沸点は標準大気圧を標準圧力とするのが通常です。
次に温度です。実は標準状態に温度の決まりはありません。上の約束で「温度 $T$ における」と書いてあるように,温度は何度でも良い代わりに,その都度指定することになっています。でもそうすると,上の問題が解決しないんじゃ...と思いますよね。水溶液を扱っている人と,溶融金属を扱っている人とでは普通の温度と言ったときの「普通」が違いすぎるという大人の事情でしょうかね。ということで,標準というまでの格は得ることができなかったものの,習慣として温度が指定されていない場合は $T=298.15\unit{K}$ つまり $25\oC$ ということになっていて,毎回温度を書く煩わしさから解放されるようになっています。いくつか標準状態の例を挙げます。
$298\unit{K}$ におけるエタノールの標準状態とは,$298\unit{K}$,$1\unit{bar}$ の液体のエタノールを意味する。
$500\unit{K}$ における鉄の標準状態とは,$500\unit{K}$,$1\unit{bar}$ の固体の鉄を意味する。
標準状態であることを表す記号は $\circ$ で,これを右肩につけます。例えば,水の $373\unit{K}$ における標準蒸発エンタルピーは,次のように表します。
化学反応で温度が変化するような場合も,反応の前後で温度を補正して報告します。
プロパンの燃焼エンタルピーは $\DelH{} = -2220\kJmol$ と紹介済みですが,これも実は $298.15\unit{K}$ における標準状態での値でしたので,今となっては $\DHo{}(298)$ や温度を省略した $\DHo{}$ と書いた方が適切です。もちろん化学反応なので $\DHo{r}$,あるいは燃焼(combustion)の c を使って,$\DHo{c}$ としても構いません。
少々ややこしい事情があって,標準状態圧力が $10^5\unit{Pa}$ になったのは 1982 年からで,それまでは標準大気圧が標準状態圧力でした。といってもそんなに急に変えられるわけがなく,1982 年以降であっても古い定義で書かれているものがありますので注意が必要です。高校化学では,「標準状態で $1\unit{mol}$ の理想気体」と言えば $0\oC$,$1\unit{atm}$ の理想気体 $1\unit{mol}$ のことで,その体積は $22.4\unit{L}$ と受験生は記憶します。しかし,国際的には言葉の意味するところが変わったため,最近の受験問題では曖昧さを避けるために $0\oC$,$1.013\times 10^5\unit{Pa}$ と,温度と圧力が明示されることが多くなりました。