田辺・菅野ダイヤグラム1
本講義でも,すでに何回か田辺・菅野ダイヤグラム(Tanabe-Sugano diagram)という言葉は登場していますし,錯体化学の授業を受けたことがある方は一度は勉強するであろう有名なダイヤグラムですが,その見方や使い方となると一歩引いてしまう方も多いかもしれません。本節以降で具体的に見ていきます。
$\ao{d}^2$ 電子配置
まずは実物を見てください。下図は $\ao{d}^2$ 電子配置の田辺・菅野ダイヤグラムです。横軸には $\Delta_\mathrm{O}/B$ と書かれており,これは配位子場分裂エネルギーをラカーパラメータ $B$ で規格化したものですが,要は配位子場(結晶場)の強さだと考えて下さい。縦軸は状態のエネルギー $E$ をやはり $B$ で割っていますが,これも単純に状態のエネルギーと考えて結構です。ただしオーゲル図とは違って,田辺・菅野ダイヤグラムでは基底状態のエネルギーが常にゼロとなるように描いている点に注意してください。オーゲル図では結晶場が強くなるにつれて $\irrep{T}{1g}(F)$ 項のエネルギーが下がっていきますが,田辺・菅野ダイヤグラムでは $\irrep{^3F}{}$ 項から生じた $\irrep{^3T}{1g}$ 項がエネルギーゼロをキープしています。これは,田辺・菅野ダイヤグラムが主として吸収スペクトルの解釈に用いることを想定しており,基底状態と励起状態のエネルギー差が重要となるためです。
$\ao{d}^2$ 電子配置の田辺・菅野ダイヤグラム
縦軸を見ると,基底状態から $15B$($B$ で割っているので目盛りとしては $15$)だけエネルギーが高いところに $\irrep{^3P}{}$ があり,オーゲル図と一致しています。オーゲル図ではこの二つだけでしたが,田辺・菅野ダイヤグラムでは基底状態とは異なるスピン多重度の励起状態についても描くのが普通です。こうしてみると,オーゲル図と比べて田辺・菅野ダイヤグラムは図に描かれている情報量が多く,かつ $B$ というパラメータを図の要素として取り入れることで,より定量的に実験結果とダイヤグラムを比較することができるように工夫されていることが分かります。
ところで,ラカーパラメータには $A$,$B$,$C$ の三つがあると前節で説明しましたが,田辺・菅野ダイヤグラムには $B$ の情報しか含まれていません。実はエネルギー差を考える限りにおいては $A$ については差し引きで相殺されてしまうので考える必要がないというのが $A$ を考えなくてよい理由なのですが,$C$ についてはそうはいきません。しかし,$B$ と $C$ の両方を図に織り込もうとすると図が複雑になりますし,$C$ を色々と変えた図を何枚も用意するのも大変です。しかし幸いなことに,$B$ と $C$ にはある程度の相関があって,$B$ はおよそ $4C$ から $5C$ 程度の値とみなすことができることが知られています。したがって,田辺・菅野ダイヤグラムを作図する際には自由イオンの場合の値を参考にして $C/B$ の値を固定して作図することが一般的です。
$\ao{d}^3$ 電子配置
では次に $\ao{d}^3$ 電子配置の田辺・菅野ダイヤグラムを見てみましょう。前節のオーゲル図からもわかるように,今度は $F$ 項から生じる $\irrep{A}{2g}$ 項が基底状態となっていますが,図の基本的な見方は変わりません。
$\ao{d}^3$ 電子配置の田辺・菅野ダイヤグラム
吸収スペクトルの帰属を行う際に田辺・菅野ダイヤグラムは威力を発揮します。$\ao{d}^3$ 電子配置をもつ実際の錯体の吸収スペクトルと田辺・菅野ダイヤグラムの対応を考えてみます。下図は $\ce{[Cr(OH2)6]^{3+}}$ の吸収スペクトルです。強度が大きい吸収帯が二つ観測されていますが,この吸収帯の由来はどのように帰属されるでしょうか。田辺・菅野ダイヤグラムを見ると,基底状態は四重項($\irrep{^4A}{2g}$)で,スピン多重度が等しい励起状態は $\irrep{^4T}{2g}$,$\irrep{^4T}{1g}(F)$,$\irrep{^4T}{1g}(P)$ の三つあることが分かります。よって実際に観測されている吸収帯のうち,最も低エネルギーのものは $\irrep{^4T}{2g}(F)\leftarrow\irrep{^4A}{2g}$,二番目に低エネルギーのものは $\irrep{^4T}{1g}(F)\leftarrow\irrep{^4A}{2g}$ 遷移であると帰属することができます。三番目の $\irrep{^4T}{1g}(P)\leftarrow\irrep{^4A}{2g}$ はエネルギーが高く,ピークは下のスペクトルの観測領域の外にはみ出していて,吸収帯の裾野が一部 $30,000\unit{\wn}$ より高エネルギー側に観測されています。
$\ce{[Cr^{III}(OH2)6]^{3+}}$ の吸収スペクトル