錯体の表記法
ある化学物質をどのように表記し,命名するかという問題は,化学の本質ではないものの,コミュニケーション上は重要です。もちろん,化学式や構造式を描くこともできますが,簡潔な言葉で特定の錯体の構造を表現することができれば,学習や議論をよりスムーズに行うことができます。錯体に関して言うと,昔は錯体ごとに,色などの特徴から個別に名前が付けられていました。既に登場したルーテオ塩の luteo とはラテン語で黄色を意味します。しかし,この方法は,学問が進んで新しい錯体が次々と合成されるにつれてすぐに破綻します。そこで,より系統的,統一的な表記法や命名法が必要になるわけですが,新規化合物が次々と報告される現代においては,学問の進展に応じて,表記法や命名法も進化しており,結果として非常に複雑な文法体系となっているのが現状です。
IUPAC により提唱されている金属錯体の表記法や命名法は,専門家であってもすべてを把握することは難しいのですが,最低限のルールを知っておく方が,学習を進めるうえで便利であることもまた事実です。ここでは,錯体化学の学習に必要と考えられる程度の表記法や命名法について確認します。
表記法のルール
原則として,以下に述べるルールで表記することになっていますが,用途に応じて柔軟に表記法を変更することがあるのが実情です。したがって,あまり神経質に考えすぎない方がよいです。文法にこだわりすぎて英語が話せないのでは意味がないのと同じで,表記にこだわりすぎて化学の勉強を始められないのでは意味がありません。形式よりも,伝わることが大切です。
- 独立した錯イオン(錯分子)はブラケット(square brackets)[ ]で囲み,原則として中心金属,配位子の順に書きます。配位子が複数種類ある場合は,配位元素の元素記号のアルファベット順とします。配位子が複数原子からなる場合は,それらを丸括弧(parentheses)( )で囲みます。個々の配位子の電荷は書きません。部分構造をくくるには波括弧(braces){ }を使用します(下記7参照)。$\ce{[Fe(CN)6]^{3-}}$,$\ce{[Cu(NH3)4]^{2+}}$,$\ce{[CoBrCl(NH3)2(NO2)(OH2)]}$ など。水分子の配位は,配位原子である $\ce{O}$ を先頭にして $\ce{(OH2)}$ とします。
- 対イオンも合わせて表記する際は陽イオン,陰イオンの順に書きます。$\ce{Na3[Fe(CN)6]}$,$\ce{[Cu(NH3)4]Cl2}$ など。
- 金属の酸化数を表すには元素記号の右肩にローマ数字を付します。$\ce{[Cr^{III}(NCS)4(NH3)2]^-}$,$\ce{[Cr^{III}Cl3(OH2)3]}$,$\ce{[Fe^{-II}(CO)4]^{2-}}$ など。
- よく使われる配位子には略号が用意されています。$\ce{[Co(en)3]^{3+}}$($\ce{en}$ = ethylenediamine),$\ce{py}$ = pyridine,$\ce{[RuCl2(bpy)2]}$($\ce{bpy}$ = 2, 2$'$-bipyridine),$\ce{gly-}$ = glycinato,$\ce{edta^{4-}}$ = ethylenediaminetetraacetato など。
- 配位可能な原子が配位子中に複数ある場合は,$\kappa$(kappa)で配位原子を明示できます。例えば,グリシン酸(glycinate,$\ce{gly-}$)は $\ce{N}$ と$\ce{O}$ の二つの配位可能な原子を持ちます。両方の原子で配位しているのであれば $\ce{[Co(gly)3]}$ のような表記で構わないのですが,$\ce{N}$ だけで配位していることを明示するのであれば,$\ce{[Co(gly-\kappa \textit{N})3Cl3]}$ のようになります。$\kappa$ の後の元素記号はイタリックで書きます。
- 有機配位子の不飽和結合が持つ $\pi$ 電子による配位は,配位に関わる原子数を右肩に付して $\eta^5$(eta five)のように表します。例えば,フェロセンは $\ce{[Fe(\eta^5-C5H5)2]}$ となります。
- 配位子が複数の金属イオンを架橋しているときは $\mu$ を使います。例えば,次のアルミニウム2核錯体は,$\ce{[Al2Cl2(\mu-Cl)2]}$,$\ce{[Cl2Al(\mu-Cl)2AlCl2]}$ または $\ce{[\{Cl2Al(\mu-Cl)\}2]}$ と表記します。最後の表記では,部分構造をくくるために波括弧{ }を用いています。ブラケット[ ]は独立した錯構造を表すので,$\ce{[Cl2Al(\mu-Cl)]2}$ としてはいけません。