原子単位系

げんしたんいけい

atomic units

原子単位系(atomic units)とは,特に原子や分子を理論的に扱う際の利便性を重視して約束された,SI 単位系とは異なる,いくつかの単位のあつまりのことです。

もう少し具体的には,原子単位系は,静止電子質量 $\me$,換算プランク定数 $\hbar$,電気素量 $e$ をそれぞれ質量,作用,電荷の基準とする(すなわちこれらをすべて 1 単位とする)Hartree によって提唱された単位系です。さらに以下の式(\ref{Ehhartreedef})で表される $\Eh$ をエネルギーの基準としたものが Hartree 原子単位系であり,$\Eh$ は Bohr 半径 $a_0$ の距離を隔てた二つの電気素量に相当する電荷によるクーロンエネルギーで定義されます。これは,基底状態の水素原子において,電子と陽子の距離が Bohr 半径であるときのクーロンポテンシャルエネルギーに相当します。

$$\Eh = \frac{1}{4\pi\varepsilon_0}\frac{e^2}{a_0} \label{Ehhartreedef}$$

$\Eh$ に相当するエネルギーを $1\unit{hartree}$ と表します。他にも,エネルギーをリュードベリ $\mathrm{Ry}$ を単位とするリュードベリ原子単位系というものもありますが,ここでは詳細を割愛します。

式(\ref{Ehhartreedef})の右辺に各定数の SI 単位系(MKSA 単位系)での値を代入して,$1\unit{hartree}$ を MKSA 単位系に換算すると $4.359\times 10^{-18}\unit{J}$ となります。また,原子単位系を採用する際には,これと併せて,Gauss 単位系を用いることが多く,Gauss 単位系は,MKSA 単位系において,$\frac{1}{4\pi\varepsilon_0}$ で表される比例係数を 1 とする単位系です。通常,Hartree 原子単位系(あるいは単に原子単位系)と言えば,Gauss 単位系を採用した Hartree 原子単位系を意味します

Bohr半径 $a_0$ は,Bohr の原子模型における,水素原子の第一軌道半径で定義され,Gauss 単位系では次式となります。

$$a_0 = \frac{\hbar^2}{\me\,e^2}$$

したがって,(Gauss 単位系を採用した)原子単位系における Bohr 半径は,やはり 1(正確には $1\unit{a_0}$ と書くべきでしょう)となります。$\Eh$ も $a_0$ も $\me$,$\hbar$,$e$ に従属しており,数値はすべて 1 であるので,結果として原子単位系ではこれらの五つのうちの任意の三つを 1 単位と定義する単位系であると言うこともできるわけです。あるいは四つを 1 単位と定義すれば,Gauss 単位系が自動的に組み込まれるという言い方をしてもよいかもしれません。

原子単位系では,数値の後ろに基本となる物理定数を記すことで,どの物理量について述べているかを表します。例えば,質量であれば $1.0\,[\me]$ などと書きます。一方,物理量に関わらず,すべて atomic units の頭文字をとって $\mathrm{a.u.}$ あるいは $\mathrm{au}$ で表すという流儀もあります。例えば,原子単位系での Bohr 半径は $1\unit{au}$ となるわけですが,この場合,$\mathrm{au}$ が長さを表しているということは文脈から判断するか,あるいは明記する必要があるため,この流儀はときどき書物でも見かけますが,IUPAC では非推奨とされています。

原子や分子を理論的に扱う際にわざわざ原子単位系を用いる利点は何でしょうか。

化学や物理を学習すると,いろいろな種類の単位に出会います。しかも,同じ物理量であるのに,複数の異なる単位が用意されていることがあり,初学者が見ると,面倒だなと感じて,科学に苦手意識を持つ原因となってしまうこともあるのではないでしょうか。例えば,長さを表す単位のひとつにメートル「$\mathrm{m}$」がありますが,化学の教科書には,SI 単位である $\mathrm{m}$ にナノ「$\mathrm{n} = 10^{-9}$」,ピコ「$\mathrm{p} = 10^{-12}$」のような桁を表す接頭語がついたナノメートル「$\mathrm{nm}$」,ピコメートル「$\mathrm{pm}$」といった単位の他に,オングストローム「Å」という,SI 単位とは別の長さの単位が登場することもあります。

もちろん,これは化学に限ったことではなく,宇宙の話をするのであれば,地球からの距離を表す長さの単位として「光年」を用いますし,船乗りは距離を表すのに「海里」,飛行機の高度を表すには「フィート」を使うというのはよく知られています。

これらの単位は,物理量としてはすべて「長さ」を表していますので,互いに換算することが可能で,多くの場合は SI 単位であるメートルに換算されます。飛行機のパイロットはフィートを使いますが,乗客である私たちはフィートを使い慣れていないので,機内ではメートル換算を付け加えた「当機はただいま高度3万3千フィート,約1万メートル上空を順調に飛行中です」というような機長からのアナウンスを聞いたことがある方も多いと思います。

「それであれば,すべてメートルに統一してしまった方が面倒がないだろう」と考える人がいるのは当然のことで,同じ物理量であるにもかかわらず,たくさんの単位が乱立すると,意思疎通に支障が生じますし,科学のように厳密さを重視する場面では,単位の統一はとても大切であることは容易に想像できます。この理念のもとに約束されている単位が,いわゆる SI 単位であって「いつ何時も,長さや距離を表すのであればメートルを単位としましょう」とすればすべて丸く収まりそうです。

しかし,利便性や歴史的背景という視点からは,すべてを SI 単位系にしてしまうことは,必ずしも得策ではありません。例えば「光年」をメートルに換算することはもちろん可能ですが,「大マゼラン星雲まで16 万光年」と言われた方が,途方もない遠さを感じ取りやすいのではないでしょうか。つまり,時と場合によって使いやすい単位系というものがあって,人類は SI 単位系をリスペクトしつつも,それ以外の単位系も便利に活用しているわけです。

では,原子や分子を理論的に扱う際に原子単位系を用いると便利な点とは何でしょうか。

細々とした係数が理論に入り込まないことによって,理論自体の見通しが良くなるというのもひとつの理由でしょう。また,基本物理量というのは定義の見直しや計測技術の進歩によって,時間とともに変化するものです。理論の初期の段階で,将来変わる可能性がある数値を使ってしまうと,これらが変化したときに理論中の式をすべて改訂しなくてはいけません。変わる可能性があるものはできる限り最後に適用することで,そのようなわずらわしさを最小限にすることができます。

それに加え,実用的には,計算が簡単になるというのが原子単位系を用いるメリットとして大きいです。1 は掛け算や割り算をするのが楽な数字です。よって,手間のかかる算数は回数を減らすためにできるだけ後回しにして,計算が全部終わってから(必要に応じて)原子単位系で得られた結果を別の使いたい単位系に直しましょうとするわけです。楽をするメリットはコンピューターを用いた計算機化学の分野にもあります。計算機化学では,おびただしい回数の計算が必要になり,個々の計算を簡単にして計算時間を節約することと,各計算での桁落ちなどによる誤差の増幅を抑制することが重要で,原子単位系はこれらの問題を解決することができます。

参考

最終更新日 2024/01/14

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