貴ガス

きがす

noble gas

私たちが普段目にする元素の周期表は 1 族から 18 族までの元素で構成されており,このうち 18 族に属する元素を貴ガス(元素)といいます。元素が示す性質の周期性に気付き,周期表の原型を最初に提唱したのはメンデレーエフ(Mendeleev)ですが,貴ガスは 19 世紀後半まで未発見であったため,メンデレーエフの周期表には貴ガス元素は載っていません。

メンデレーエフにより発表された周期表

メンデレーエフにより発表された周期表(1969 年)
(Dmitri Mendeleev, Public domain, via Wikimedia Commons)

発見が遅れた理由の一つは,貴ガス元素が他の元素と比べて自然存在比が少なく,また反応性が低く化合物を作らないためです。ただし後述するように,現在では貴ガス元素の化合物もいくつか例が知られています。1868 年に太陽光の分析結果から,太陽に未知の元素が含まれていることが示され,これがきっかけとなってヘリウム $\ce{He}$(helium)が発見されました。18 世紀から 19 世紀半ばくらいまでは新元素発見のラッシュだったのですが,最初の貴ガス元素がこのラッシュを過ぎたあたりにようやく発見されたことからも,貴ガス元素をつかまえるのがいかに難しかったかがわかります。なお,ヘリウムという命名はギリシャ神話の太陽神であるヘリオスにちなんだものです。

現在,貴ガス元素として知られているのはヘリウム $\ce{He}$(helium),ネオン $\ce{Ne}$(neon),アルゴン $\ce{Ar}$(argon),クリプトン $\ce{Kr}$(krypton),キセノン $\ce{Xe}$(xenon),ラドン $\ce{Rn}$(radon)の六つです。英語の発音は大体カタカナ表記に類似していますが,キセノンの xenon は「ゼィーノン」と濁りますので「キセノーン」と頑張っても通じないと思います。18 族元素としては他に原子番号 118 番のオガネソン $\ce{Og}$(oganesson)があります。オガネソンは天然には存在しない人工元素で,2002 年に初めて合成され,2015 年に新元素として承認されています。しかし,これまでに数えられるほどの個数の原子しか作られておらず,しかも短い半減期で崩壊して別の元素に変わってしまうため,オガネソンの化学的性質はほとんど分かっていません。形式的に考えれば $\ce{Og}$ を七つ目の貴ガスの仲間として加えることになりますし,一応現状ではそのような扱いになっているようですが,常温常圧で単体が気体であるかどうかも明確ではなく,固体ではないかという理論研究の報告もあるため,貴ガスに加えるべきかどうかは議論の余地ありです。

貴ガスと希ガス

これまで貴ガスと書いてきましたが,ある年齢以上の方はこの表記に違和感を覚えるかもしれません。というのは,ガスは一昔前まではガスと表記するのが一般的でした。さらに言うと,昔はガスと書いていました。読み方はいずれも「きがす」です。18 族元素は自然存在比が少ないということで,もともとは英語で rare gas とよばれていたことから,少ないとか,めったにないという意味を持つ「稀(まれ)」という漢字があてられていました。ところが「稀」は常用漢字ではないので,これは現代表記では「希」に書き換えることになっていて,ガスという表記に改められました。これは日本語の事情ですので英語表記は rare gas のままです。

ところが,18 族元素についての知見が深まるにつれて,言うほど稀(rare)ではないということが分かってきました。例えばアルゴンの大気中での体積存在比は $0.94\unit{\%}$ で,これは二酸化炭素の $0.03\unit{\%}$($300\unit{ppm}$)程度と比べても稀であるとは言えません。そのため英語の rare gas という表記が実体と合っていないということで改名されることになり,化学反応性が低いという意味で不活性ガス(inert gas)と呼ばれたこともありました。しかし今度は 18 族元素の化合物が合成されたことから,inert という表記もしっくりこず,貴金属(noble metal)という名称にちなんで貴ガス(noble gas)という表記が誕生しました。確かに貴金属は希少性はあるもののそこまででもなく,反応性は低いもののそこそこ反応するので,noble という表現はバランスが良いように思います。

IUPAC の勧告により noble gas の表記が採用されたのが 2005 年ですが,日本の教育現場ではその後もしばらく希ガスの表記が使われ続けました。日本化学会による 2015 年の提言により,ようやく高等学校の教科書などで貴ガスの表記が広く使われるようになりましたので,ある年齢以上の方が貴ガス表記に違和感を覚えるのはもっともなことです。希ガスが貴ガスに変わったのは日本語の事情ではなく,英語の名称変更によるもので,読み方がどちらも「きがす」で変わらなかったのは偶然(あるいは翻訳者の努力の賜物)であり,漢字文化の面白い一面だと思います。

貴ガスの性質

貴ガス元素の原子は $n\ao{s^2}n\ao{p^6}$($\ce{He}$ は $1\ao{s^2}$)の基底電子配置をもち,$\ao{s}$,$\ao{p}$ 軌道に関して閉殻となるため,他元素と比べて化学反応性が著しく低いという特徴を持ちます。その安定性たるや,高校の化学で習う通り,ハロゲン化物イオンやアルカリ金属イオン,アルカリ土類金属イオンが貴ガスの電子配置を目指してイオン化するくらいであり,貴ガス型電子配置という特別な名称が与えられているほどです。原子の結合体であって,一つの独立した粒子としてふるまうものが分子ですが,貴ガス元素の原子は他と結合せずに単独で独立した粒子としてふるまうため,これを特別に単原子分子といいます。原子と単原子分子の違いですが,原子は独立した粒子としてふるまうという条件を要さない一方,分子はこの条件が必要です。よって単原子分子という名称には,貴ガスは原子であると同時に独立した粒子としてふるまう分子としての性質も兼ね備えているという意味合いがあります。

通常の条件では単原子分子としてふるまう貴ガスですが,まったく反応性がないというわけでもなく,最も反応性が低いと考えられているヘリウムであっても特殊な条件下では化合物を形成するという報告が 2017 年にされています。

貴ガス元素の化合物

初めて化合物が報告された貴ガス元素はキセノン $\ce{Xe}$ で,$\ce{XePtF6}$ の組成と思われる物質が 1962 年に報告され,その後立て続けに $\ce{XeF2}$,$\ce{XeF4}$,$\ce{XeF6}$ が合成されており,キセノンが $+2$,$+4$,$+6$ の酸化数をとれることが分かります。反応性が低い元素の化合物なのでさぞかし不安定で扱いにくいだろうと考えたくなりますが,$\ce{XeF2}$ は単体のフッ素 $\ce{F2}$ よりもむしろ扱いやすいということで,フッ素化剤として用いられることがあり,市販もされています。フッ素化合物以外にも,酸化物や窒化物,金属と結合したキセノン化合物も知られています。

キセノン以外の貴ガス元素では,クリプトンのフッ化物 $\ce{KrF2}$ が知られているほか,2017 年に高圧条件下でヘリウム化ナトリウム $\ce{Na2He}$ の合成に成功したという論文が発表されました。

参考

  1. A stable compound of helium and sodium at high pressure, Dong, X., Oganov, A., Goncharov, A. et al. Nature Chem., 2017, 9, 440-445.

最終更新日 2023/02/12

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