1. 補足
  2. 科学の表記ルール

科学の表記ルール

論文やレポートなど,科学の内容を含む文章を書こうとする際,書き方のスタイルで迷うことがあります。例えば,$pH$ と $\pH$ はどちらの表記が望ましいでしょうか。アンモニアを $\ce{NH3}$ ではなくて $NH_3$ と書いてもよいのでしょうか。絶対温度を記述する際,$273\mathrm{K}$,$273\unit{K}$,$273K$,$273\,K$ はどの書き方が望ましいでしょうか。原子軌道は $\ao{p}_x$ それとも $p_x$?

教科書を読んで勉強するだけなら表記法を気にする必要はないかもしれませんが,最近は学生の方もレポートや課題をパソコンで作成する機会が増えていると思いますので,他人事ではありません。プレゼンテーション資料や学位論文にも関わる事項です。もし表記に関するルールがあるのであれば,できるだけルールに則って記述をした方が読みやすいですし,読み手に誤解を与えるリスクを避けることができます(レポートを採点する先生の心証も良くなります)。

科学表記に関しては IUPAC によるスタイルガイドである Green Book が発行されていて,基本的にはその方針に従うのが良いと思います。学問分野によっては,習慣として用いられてきた表記法を継続して使っているということもありますが,まずは Green Book のルールに従うのが基本です。

現状,世の中に出回っている教科書や専門書が,統一的なルールに則って記述がされているかというと,残念ながらそのような状況にはなっていませんし,特に古い文献と新しい文献では記述ルールが違っていることも多々あります。しかし,今後の方向性としては統一した表記法が増えていくと思いますので,Green Book のルールを意識しておいて損はありません。本サイトでも Green Book のルールに沿った記述を基本にしています

以下では,特に化学に関係しそうな内容を中心に,表記ルールについての概要をまとめます。Green Book には方針が記されており,すべての事例が掲載されているわけではありませんので,以下の説明には解釈した結果が含まれる点にご注意ください。

物理量の表記

すべてに通じる大原則として覚えておきたいのが以下のルールです。

数字はローマン体。物理量を表すシンボルはイタリック体で表し,シンボルは単位を内包する。単位はローマン体で表し,シンボルと単位の間はスペースで空ける。添え字は単なるラベルであればローマン体だが,物理量に由来するものはイタリックとする。

物理量は数値と単位の組合せです。例えば「私の身長は $160$ です」というのは会話としては成立しますが,数値だけで単位がないため,科学的な記述ではありません。「私の身長は $160\unit{cm}$ です」と書き「私の身長は $160$ センチメートルです」と読むのが正しい表現です。同様に,絶対温度の単位はケルビンに決まっているからと言って,単位を省略して絶対温度 $273$ というのは認められず,$273\unit{K}$ と書かなくてはなりません($273\unit{mK}$ という可能性だってありますし)。この際,数値と単位の間にはスペース(通常は半角スペース)を入れ,かつ単位のフォントはローマン体を使います。すなわち,$273\mathrm{K}$,$273\unit{K}$,$273K$,$273\,K$ では,$273\unit{K}$ のみが正しい書き方となります。

科学的な記述では物理量を記号(シンボル)で表すことがよくあります。絶対温度を表すのによく使われる記号は $T$ ですね。シンボルが物理量を表す場合はイタリック体で書くのがルールとなっています。この $T$ には単位が含まれています。したがって,$T=273$ という表記はありえず,$T=273\unit{K}$ となりますし,単位を抜いた数値部分のみを表したいのであれば,$T/\mathrm{K}$ のようにシンボルを単位で割る必要があります($\mathrm{K}$ はローマン体です)。これが重要になるのは,物理量の対数をとる場合で,温度の対数を表す際,単位の対数というのはありませんので,$\log T$ と書くことはできません。$\log(T/\mathrm{K})$ のように $T$ を単位なしの数値に変換してから対数をとります。

物理量を表すシンボルに添え字をつけることがよくあります。系 A と系 B の温度を区別したいときはそれぞれ $T_\mathrm{A}$,$T_\mathrm{B}$ とすると便利です。このときの A,B は物理量ではなく,単なる区別のためのラベルですので,ローマン体で記述します。ただし,添え字であっても,物理量の意味を有する添え字であればイタリックとなります。定圧熱容量と定積熱容量は $C_p$ と $C_V$ で区別できますが,添え字はそれぞれ圧力と体積を表しますのでイタリックで記述します。系 A の定圧熱容量であれば,$C_{p,\mathrm{A}}$ とするのがよいでしょう。電子の静止質量は $m_\mathrm{e}$ です。質量 $m$ は物理量ですが,添え字の $\mathrm{e}$ は電子(electron)を表すラベルなのでローマン体になります。

ベクトルは太字で表し,これが物理量であるならばやはりイタリック体にします。電場 $\bm{E} = (E_x, E_y, E_z)$ のようになります。

数学の表記

Green Book ルールでは,数字,円周率やネイピア数(自然対数の底),虚数単位,三角関数のように名前の付いた数学関数を表す記号はローマン体,変数や定数を表す記号はイタリック体で表すことになっています。標準的な物理化学の教科書である Atkins' Physical Chemistry はこのスタイルで書かれています。

$$\mathrm{e}^{\mathrm{i}\pi} = \cos\pi + \mathrm{i}\sin\pi = -1$$

ただし,以下のようにイタリック体の $e$ や $i$ の表記もよく見ます。こちらの方が見た目は美しいような気もするのですが,上で述べたように,物理量をイタリック体で表すルールがありますので,$e$ は電荷素量,$i$ は電流と紛らわしいといった,純粋数学では起こらない事情もあります(ただし,ローマン体の $\mathrm{e}$ は電子を表す場合にも使いますので,結局は文脈次第です)。

$$e^{i\pi} = \cos\pi + i\sin\pi = -1$$

微分や積分で用いる微小量を表す記号は,Green Book ではローマン体の $\mathrm{d}$ を使うことになっていますが,数学関係の書籍ではイタリック体の $d$ を使うことの方が一般的なようですし,高校数学の教科書もイタリック体の $d$ で書かれています。この辺はどちらが正解という話ではなさそうです。$d$ は物理量の距離(distance)を表すことがあります。

$$a(t) = \frac{\diff v}{\diff t} = \frac{\diff^2 x}{\diff t^2}$$

化学の表記

化学式

元素記号や化学式は $\ce{Fe}$,$\ce{H2O}$,$\ce{[Co(NH3)6]Cl3}$ など,ローマン体での記述が原則になります。ただし,$N$,$N$-dimethylformamide(DMF)のように,どこに結合しているかを表す場合は元素記号であってもイタリック体になります。DMF の場合は「二つのメチル基はどちらも窒素原子に結合していますよ」ということをイタリック体の $N$ で表しています。電子 $\mathrm{e}$,プロトン $\mathrm{p}$ などはローマン体になります。

常用対数の記号

常用対数にマイナスを付けた $-\log$ を表す $\mathrm{p}$ はローマン体です。したがって水素イオン濃度は $\pH$ となります。ただし $\pKa{}$ の $K$ はイタリック体です。

原子軌道

原子軌道はローマン体で書きます。リチウム $\ce{Li}$ の基底電子配置は $(\ao{1s})^2(\ao{2s})^1$ となります。大文字で書く原子項($\mathrm{S}$,$\mathrm{P}$,$\mathrm{D}$,$\cdots$)もローマン体です。

群論

点群の分類を表す $\grp{C}{2v}$,$\grp{D}{4h}$,$\grp{O}{h}$ などはイタリック体(添え字はローマン体)で表します。対称要素(対称操作)は $C_n$(回転軸),$\sigma_h$(鏡映面),$i$(対称心)のようになります。既約表現は $\irrep{A}{1g}$,$\irrep{T}{2g}$ など,小文字で表す場合でも $\irrep{a}{1g}$,$\irrep{t}{2g}$ とローマン体になります。既約表現を利用した電子配置の表現も同様で $(\irrep{t}{2g})^3(\irrep{e}{g})^2$ のようになります。

最終更新日 2025/06/18