1. 錯体化学
  2. 錯体の安定性

錯体の安定性

ある錯体が安定であるという言い方をするとき,「安定」という言葉に対して,二つのとらえ方が可能です。ひとつは熱力学的な意味での安定です。錯体をある条件の下に置いて,十分長い時間が経過すると,錯体は最終的には,それ以上変化しないように見える状態に収束します。このような状態を熱力学的に安定な状態といい,英語では stable と表現します。「ある錯体の水溶液を放置していたらいつの間にかアクア錯体に変わってしまった」というような状況があったとします。これは,変化後のアクア錯体の方が水溶液という条件下において熱力学的に安定であったために起こった変化であると言えます。stable の反意語は unstable です。化学平衡の視点で考えるのであれば,まだまだ平衡状態には達しておらず,変化しうる状態は不安定,平衡状態に達し,見た目の変化が生じなくなった状態を安定と言うわけで,複数の化合物が同時に存在するような平衡状態に収束してもよいわけですが,錯体の安定性を語るときには,ある特定の化合物がその化合物の状態を保ち続けるかどうかという意味に特化して「熱力学的に安定」という表現が使われることがある(すなわち平衡が一方に大きく傾いた状態に限定して熱力学的に安定ということがある)ので注意が必要です。

一方,化学反応が起こるためには,活性化エネルギーに相当するエネルギー障壁を越える必要がありますので,障壁の大きさによって,反応速度に違いが生じます。活性化エネルギーが大きい場合,反応速度が極めて遅くなるため,理論上は熱力学的により安定(stable)な状態が存在したとしても,私たちの観測の時間スケールでは実質的に反応が進行しないという状況が起こりえます。このような状態を速度論的に安定な状態といい,熱力学的に安定な状態とは区別して考えます

熱力学的安定と速度論的安定のどちらも安定という共通の日本語で表現していては紛らわしいため,別の用語が用意されていて,特に錯体の置換反応において,速度論的に安定ではない状態,すなわち置換反応が有意の速度で進行する場合を置換活性(labile)と表現します。labile の反意語は不活性という意味の inert か,あるいは中間的な状態という意味で non-labile が用いられます。やや感覚的になりますが,inert(反応が極めて遅い)$\ll$ nonlabile $<$ labile(反応が速い)という関係になります。もう少しきちんとした区別がしたい方は,一般に室温 $25\oC$,$0.1\molL$ の条件で 1 分以内に反応が完了するものを labile と呼ぶという約束を知っておくとよいでしょう

典型的な例を紹介します。$\ce{[Ni(CN)4]^{2-}}$ と $\ce{[Cr(CN)6]^{3-}}$ は,どちらも熱力学的に安定(stable)な化学種ですが,放射性の $\ce{^{14}CN-}$ を用いた配位子交換反応の実験結果から,$\ce{[Ni(CN)4]^{2-}}$ のシアニド配位子は $\ce{^{14}CN-}$ と速い交換が起こっているのに対し,$\ce{[Cr(CN)6]^{3-}}$ ではそのような交換は極めて遅い反応であることが示されています。すなわち,$\ce{[Ni(CN)4]^{2-}}$ は stable である(見た目に変化があるようには見えない)が labile(実は置換反応が起こっている)であり,一方,$\ce{[Cr(CN)6]^{3-}}$ は stable であり,かつ non-labile(置換反応は起こらない)ということになります。

最終更新日 2023/06/12