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サファイア

さふぁいあ

sapphire

手塚治虫の作品「リボンの騎士」は,天使の悪戯で心の男女が入れ替わって生まれてきた王女が,王位継承権を持つ王子として育てられ,リボンの騎士として悪と対峙する物語です。現代に通じるテーマ性を備えた作品を昭和 20 年代に発表しているというのは驚きというほかありません。

リボンの騎士

「リボンの騎士」より

リボンの騎士の主人公の名前がサファイアです。サファイアと言えば,下のような深い青色の宝石のサファイア(sapphire)を思い浮かべる方が多いと思います。一方,化学者にとってのサファイアはコランダム(corundum)の一種であり,ルビー(ruby)の仲間という認識です。

サファイア

サファイア
Wiener Edelstein Zentrum, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

コランダムまたの名を鋼玉は,酸化アルミニウム $\ce{Al2O3}$ を理想的な化学組成とする鉱物あるいは結晶の総称です。純粋な $\ce{Al2O3}$ の結晶は無色透明ですが,そこに天然または人工的な不純物が含まれると,その種類や濃度によってさまざまな色に着色した鉱物になり,それらはすべてコランダムと呼ばれています。微量成分の存在で性質が大きく変わるというのは,化学の多様性を生み出す要因になっていると同時に,物質を理解することの難しさでもあります。

コランダムのうち,$\ce{Cr^{3+}}$ イオンを $2$ ~ $3\unit{\%}$ 不純物として含み,赤く着色したものがルビー。その他がサファイアです。下の写真に写っている石はすべてコランダムで,中央の赤いのがルビー,その他はすべてサファイアの分類です。つまり典型的な青色だけではなく,黄色や緑色のコランダムもサファイアと呼んでいます。また,赤くても色が薄いものはピンクサファイアとして分類されるようです。

コランダム

コランダム

化学者の目には同じコランダムの仲間に映るルビーとサファイアですが,では見た目の違いはなぜ生じるのかということを探るのも,また化学の役割です。ルビーの赤色は不純物として含まれる $\ce{Cr^{3+}}$ イオンに由来し,これはいわゆる結晶場理論(crystal field theory)によって説明される現象の典型例となっています。よって,ルビー自体は錯体ではありませんが,錯体化学を学ぶ過程でルビーの話がよく出てきます。一方,サファイアはどうかと言うと,特に青色のサファイアは $\ce{Fe^{3+}}$ および $\ce{Ti^{4+}}$ イオンを不純物として含むものが多いようです。この場合もやはりイオンが受ける結晶場の影響が発色に大きくかかわっているのですが,結晶場の影響を受けた鉄とチタンのイオン間の電荷移動遷移が主な発色の要因となります。そのため,ルビーよりも話が複雑になってしまうので,結晶場理論を学習する際にサファイアの話が出てくる頻度は少なくなります。別に授業をする先生の好みでルビーばかりが題材に取り上げられるわけではありません。

サファイアは,不純物を無視して物質名で書くと酸化アルミニウム $\ce{Al2O3}$ です。これは高等学校の化学では,両性酸化物(amphoteric oxide)であって,酸に対しては塩基性,塩基に対しては酸性を示すので,酸にも塩基にも溶けると学習します。

\begin{align} &\ce{Al2O3 + 6HCl -> 2AlCl3 + 3H2O} \\[10pt] &\ce{Al2O3 + 2NaOH +3H2O -> 2Na[Al(OH)4]} \end{align}

もちろん粉末の酸化アルミニウム(アルミナ)はこれで間違いありませんが,一方でサファイアは酸にも塩基にも溶けにくい性質を持ちます。同じ物質でありながら,化学的な性質が異なるというのは不思議な気がしますが,サファイアは良質の結晶のため,粉末のアルミナと比べて表面積が圧倒的に小さく,化学反応するとしても反応速度は小さくなることが予想されます。また,単結晶になることで,各イオンは格子エンタルピー分だけ,結晶格子の存在による安定化を受けます。出発物質と生成物の熱力学的な安定度の差というのは化学反応を支配する大きな要因のひとつですので,格子エンタルピーにより安定化されたサファイアが化学的に不活性になることは理にかなっています。

サファイアにまつわる話をもう一つ。不純物を含まない無色透明なコランダムもサファイアの範疇で,透明度が高く,とても硬くて傷がつきにくいことから,腕時計の風防ガラスやスマホのカメラレンズのカバーとして用いられています。これを「サファイアガラス」という場合と「サファイアクリスタル」という場合があるのですが,この二つの単語はかなり対極的です。なぜなら,化学の世界では,粘度が高くて固体と見分けがつかない非晶質状態にある物質をガラス(glass)と呼ぶのであって,クリスタルは非晶質の反対の結晶(crystal)を表す言葉だからです。結晶化ガラスという不思議な専門用語もあるので,臨機応変に使い分ければよいと言えばそれまでですが,これからサファイアガラスという言葉を目にしたときは,「ガラスじゃないよな」と心の中で思ってください。

さて,手塚治虫がリボンの騎士で主人公の名前をサファイアと決めた際,頭の中にあったのは宝石としてのサファイアでしょうか,それとも鉱物としてのサファイアでしょうか。もちろん主人公が王子として育てられた王女という設定ですので,今となっては青く輝く宝石としてのサファイアのイメージが強いでしょう。しかし,私には手塚治虫が鉱物あるいは化学物質としてのサファイアを意識していたような気がしてなりません。なぜかというと,リボンの騎士の悪役(サファイアが女の子であることを暴いて,王位継承権を奪おうとする)の名前がジュラルミン大公とナイロン卿ですよ。

ジュラルミンとナイロン

ジュラルミンとナイロン

もしキャラクターの名前を石でいこうと思ったら,私なら悪役は暗黒感のあるコール大公(coal,石炭)とオブシディアン卿(obsidian,黒曜石)あたりはどうかなと思ってしまいますが,そうはせず,ジュラルミンとナイロン。明らかに化学物質を意識しています。しかもジュラルミンは航空機に使われる機能素材ですし,ナイロンなんぞは当時は開発から 20 年と経っていない夢の素材のはずで,悪役に使うにはもったいないくらい化学産業と人々の暮らしに貢献している素材です。

悪役にも惜しみなく良い名前を与えて,愛されるキャラクターを作り出す,手塚治虫のこだわりが垣間見える気がします。

参考

  1. https://www.youtube.com/watch?v=n-2G2jasU3I(リボンの騎士 第1話)

最終更新日 2022/08/02