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化学熱力学

熱力学は,熱エネルギーが関わる巨視的な現象を扱う学問です。現代の私たちは,熱エネルギーという言葉にさほど違和感を覚えないかもしれません。しかし,熱がエネルギーのひとつの形態であることは,歴史的には自明ではありませんでした。もう少し具体的に言うと,現代の私たちは,熱と仕事はどちらもエネルギーの単位で表すことができることを知っていますが,その昔,熱はカロリックという物質が担うものであって,仕事と熱は本質的に異なるものであると考えられていました。しかし,19世紀の前半に,Joule は仕事が熱に変換されることを実験的に示して,熱の実体が物質ではないことを明らかにし,これによってカロリック説は否定されました。熱量の単位はカロリー($\mathrm{cal}$),仕事の単位はジュール($\mathrm{J}$)ですが,両者が本質的に同じものだというのですから,この二つを結び付ける式が必要になります。$1\unit{cal}$ の熱量に相当する仕事の量を熱の仕事当量といい,次式の関係があります[1]

$$1\unit{cal} \equiv 4.184\unit{J}$$

では,熱と仕事の違いはどこにあるのでしょうか。厳密さには欠ける説明になりますが,熱と仕事は,構成する粒子の動きに秩序ある方向性があるかどうかで区別することができます。仕事は構成する粒子の秩序ある方向性を伴います。例えば,「荷物を押して動かす」という仕事は,荷物を構成する原子や分子を同じ方向に移動させることに相当します[2]。「鉄球を持ち上げる」という仕事によって,鉄球は位置エネルギーを得ます。手を放すと位置エネルギーが運動エネルギーに変換されて,鉄球は落下します(この場合は重力による仕事です)。この場合の鉄球(を構成している原子)も先ほどの荷物同様,同じ方向に揃って移動します。鉄球を落とせば,鉄球を構成するすべての原子が下方向へと移動します。一方,鉄球をバーナーで(融点以下に)加熱すると,鉄球はエネルギーを得ているはずですが,鉄球が位置を変えることはありません。同じだけのエネルギーを与えるとしても,得られる結果は随分と異なります。それは,加熱により鉄球が得たエネルギーは,鉄球を構成する原子がそれぞれバラバラの方向に運動するために使われるためです[3]。つまり熱の実体は,構成する粒子の無秩序な動きであって,温度が上がると,この無秩序な動きが激しさを増すのです[4]。鉄球を落下させると,鉄球が有していた位置エネルギーが運動エネルギーに変換され,床に当たって鉄球は止まります。このとき,鉄球と床を構成する原子,分子の無秩序な動きが激しさを増します(つまり,温度が上がります)。小さな鉄球であれば温度の上昇はわずかですが,巨大隕石の衝突によって地球が灼熱の惑星になってしまい,恐竜が絶滅したという説を聞いたことがある方もいると思います。すなわち運動エネルギーが熱エネルギーに変換されることでエネルギーは保存されますが,秩序という観点から両者は大きく異なる形態なのです。

冒頭で,熱力学は巨視的(マクロ)な現象を扱うと書きました。巨視的とは微視的(ミクロ)の対義語で,簡単に言うと,細かい部分は見ずに遠目で全体を見るという意味です。鉄球はたくさんの原子からできており,それぞれの原子はバラバラに運動しています。したがって今この瞬間の鉄球の原子の位置や運動と,次の瞬間の原子の位置や運動は同じではありません。同じではないのですが,そういう細かいところに目を向けず,遠目に鉄球の様子が変わっていなければ,変化していないとするのが熱力学の立場です。これとは逆に,個々の原子に目を向ける立場も当然あって,そのような学問分野は統計力学とか統計熱力学などと呼ばれています。注意していただきたいのは,熱力学も統計力学も,見方が違うだけであって,見ている現象は同じであるということです。したがって両者から得られる結論は矛盾のないものでなくてはなりませんし,実際そうなるように学問が構築されています。

熱力学はすそ野の広い学問で,多くの学問分野の基礎をなしている点で重要です。特に化学現象に関わる熱力学を化学熱力学と呼ぶこともあります。しかし,基本原理は熱力学全体で共通していますので,化学熱力学という特別な学問があるのではなく,熱力学という広い学問分野の中から,化学に関係する部分を中心に抜き出したものが化学熱力学であると考えておけばよいと思います。

化学の基礎を学ぶ際に,熱力学の基礎的な事項を知っていると,理解が深まります。さらに言うと,これに加えて,統計力学のエッセンスをちょっとだけ追加してあげると,鬼に金棒です。しかし,カリキュラムの都合などで,大学教育の現場では熱力学をじっくり学んでから次に進むといったことがなかなかできない現実もあります。そこで本講義では,速習編として,化学の基礎を学ぶ上で最低限確認しておいた方が良いと思われる熱力学の基本事項をまとめました。熱力学の王道ともいえる内容や学習順を無視したスピード重視の解説ですので,正確さにはかけますが,とりあえずという方は速習編をどうぞ。しっかり学びたいという方も速習編から始めていただき,概要を押さえてから,興味に応じて本編でより深く学んでいただくのがおすすめです。

  • [1]カロリー(calorie)は,もともと $1\unit{g}$ の水の温度を標準大気圧下で $1\oC$ 上げるのに必要な熱量として定義されたものですが,水の比熱は温度により変わるため,複数のカロリーの定義が存在します。しかし,それでは混乱が生じるので,現在は $1\unit{cal} \equiv 4.184\unit{J}$ で定義される熱力学カロリーが用いられます。
  • [2]質量あるものに加速度を与えるのが力($F=ma$)で,力と距離の積が仕事です。
  • [3]バラバラに動けば鉄球が霧散して消えてしまいそうですが,融点以下であれば,原子どうしをつなぎとめる力の方が大きいため,バラバラに動きつつも,互いが離れることなく,鉄球は元の形を保ちます。
  • [4]正しくは,無秩序な動きの激しさを評価した数値が温度ですので,「温度が上がると...」というのは順序が逆です。

注)本講義では常用対数を $\log x$,自然対数を $\ln x$ のように表します。対数の表記法について詳しくはこちらを確認してください。

速習編

速習編は,別の何かを学ぶのに化学熱力学が必要だから,という「とりあえず」を最重視したものです。正確さを犠牲にしていますのでご注意ください。

本編

スピード重視の速習編に対し,本編では丁寧に熱力学の基本を学び,化学熱力学へとつなげます。

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